起業家ニートライター

起業と引きこもりニートを経てライターしてます。企業理念の策定、発信代行などをしています。平成3年生まれ。

「おまえは最高にロックな存在だ!」大事なのは自分への無条件な肯定

おかげさまで最近は今後の目標も見え、ブログを書けるほどのテンションで暮らしております。
 
 
が、去年のいまごろは、チカラいっぱい引きこもりニートとして邁進しておりました。
 
 
精神的にはどん底で、どんなに理解しあえる友だちとも連絡をとりたくありませんでした。
 
 
 

そうやってどん底をさまよい、すべてを失ったように思えた時、

 
 
「いま自分になにがあるか?」
 
 
と自問しました。 
 
 
 
 
すると
 
「おれはおれが好きだ。こんなふうになってしまった今でも、おれはおれを肯定する」 
 
 
スッとこれが出てきました。
 
この気持ち、この境地が1番の財産だと思います。
 
 
 
その時も
 
「自分のことが好きなら大丈夫だ。そこからいくらでもやり直せる」
 
と安心して、思いっきり何もしないでいました。
 
 
 
 
 
 
 
 
じゃあどうしてそこまで自分を肯定できるようになったのか。
 
 
 
大学4年のときですかな。心からそう思えるようになったのは。 
 
 
元々はそうじゃなく、なにか失敗したり、出来ないことがあったりするたびに
 
「おれはなんてダメなやつなんだ!」
 
と自己否定してました。
 
 
 
 
 
 
この話を原点まで戻って説明しますと…
 
 
 
 
 
わたし中学三年のころから、世の中に疑問を持ち始めまして。 
 
 
(はーん、こりゃ大人も社会の常識ってやつも信用できねえぞ)
 
 
ある出来事をきっかけに残念ながらこうなってしまい、それから自分で考える癖がつきました。
 
 
 
 
 
 で、すぐに思ったのが 
 
 
 
 「人生って意味なくない?」 
 
 
 
 今ではわたしもだいぶ丸くなりましたが、ほんと初期は原理主義者ですから思想がファイヤー。過激すぎ。
 
 
ただまあ真実をとらえてもいる。
 
 
 
 
 
 普通の公立中学校でやらされることって、いま考えても意義があるのかあやしいものばかり。 
 
 
「こんなことばかりやらされるのが人生ならば、生きるのなんてまっぴらごめんの長太郎!」
 
 
人生の様々な喜びを知らない中学生だから、そう思ってしまっても仕方ないですわな。
 
 
 
 
 
 
 当時いちばん自分をイライラさせたのは、やらせる側の先生も意味なんて分かってなかったんじゃないかってこと。 
 
 
つうか現場の先生も大きく言えばやらされる側ではあったのか。
 
でもちゃんと納得できる説明をして欲しかった。しようとして欲しかった。
 
 
 
 
「なんで僕は朝早くから出たくもない合唱コンクールの練習をしないといけないんですかね」
 
 
クラスのためだろ。とかじゃなくて。
 
こんな質問をするくらいだから、友だちはともかく、クラスなんて得体の知れない共同体への忠誠心がなくなっていることは察してくださいよ。
 
 
 
『確かに、合唱コンクールは学校の行事であっておまえの意思とは関係ない。受験の合否にもプラスにならない。ただみんなでやると決まっていて、そしてみんながやっていることに対して、文句を言いストライキを起こすのは、おまえが共同体からはじき出されて孤立するだけだぞ。それではこれから生きるのに苦労するだろうから、ここはそういう理不尽に耐える修行だと考えてくれないか?』
 
 
 
 
 
これぐらい言ってくれたらねえ、原理主義者の僕も納得しましt……いやしてないな。
 
 
 
「じゃあ孤独に生きるのでいいです」
 
 
ぐらい言いそう。てか絶対これ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さーて、原点から話そうとしたら盛り上がってしまったので、次回へ続きます。